チャイコフスキーを少し調べてみた

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クラシック音楽で、最近はまっているのが、

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲であることは、

前のblogでも御紹介しましたが、どうして、はまっているのだろうか?

少し立ち止まって考えてみようと。

これも、今ある些細なことに感想を持つことの1つかなと。

一言でいうと、「いい曲だなぁ」という感想。

どうして「いい曲なんだろう」と考えると、

「ノリがいい、盛り上がりがいい、テンポがいい」ということかなと。

これらをもう少し掘り下げてみよう。

以下では、

「クラシック再入門 名曲の履歴書@三枝成彰」

「ゼロから始めるクラシック入門@加羽沢美濃」

を主として参考に調べてみました。

まず、協奏曲(コンチェルト)とは、オーケストラの伴奏をバックに

独奏楽器が華やかに活躍する曲のことをいいます。

ヴァイオリン協奏曲といえば、

①ベートーベン

②メンデルスゾーン

③ブラームス

④チャイコフスキー

と言われています。

 

【時系列】

1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日)に

ロシア中部の鉱山都市ヴォトキンスクで次男として生まれる。

新興貴族として裕福な家庭環境であった。

 

1850年8月に、ペテルブルグで法律学校に入学。

 

1854年に、母親がコレラで亡くなる。

 

1859年5月に、法律学校を卒業し、法務省での勤務開始。

 

1862年9月に、ペテルブルグ音楽院に1期生として入学。

 

1865年12月に、ペテルブルグ音楽院を卒業。

 

1866年9月に、モスクワ音楽院で音楽理論の教師の職に就く。

 

1868年年末に、ソプラノ歌手、デジーレ・アルトーと婚約。

 

1868年1月に、デジーレ・アルトーがテノール歌手と結婚し、婚約は破談。

 

1876年12月に、ナジェージダ・フォン・メックと知り合う。

チャイコフスキーの音楽に心酔し、借金の肩代わりをし、1877年

から13年間にわたり、毎年6000ルーブルの支援金を送る。

1300通もの手紙のやりとりがあるが、一度も会うことはなかった。

 

1877年7月18日に、アントニーナ・ミリュコーヴァと結婚。

アントニーナが、「兄としての愛」以上のものを求めないことを

約束してくれたことから結婚に至る。

 

1877年9月に、アントニーナ・ミリュコーヴァと破局し、別居。

以後、籍は抜けないままの別居状態が死ぬまで続くことになる。

アントニーナ・ミリュコーヴァからは、同居か金銭補償を求められ、

後者を選び、毎月、仕送りを生涯にわたり送り続けることになる。

 

1890年9月に、ナジェージダ・フォン・メックからの援助が打ち切り。

同人の子どもたちの反対や経済的な理由による。

 

1893年10月28日に、交響曲6番悲愴の初演を指揮する。

1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)に、コレラで急逝する。

 

【人物像】

チャイコフスキーは、ゲイ=同性愛者であった。女性と友情を育むことはできても、

女性を性愛の対象にはできない性的指向の持ち主であった。

 

【音楽の質】

大衆のウケがとてもいい。

その理由は、「あざとさ」にある。

畳みかけるような盛り上げ方、明快で心地いい「いかにも」

なオーケストレーション。

もともと甘くて美しいメロディを書くことに秀でていた

チャイコフスキーである。

人間の感情に訴えかけるキャッチーなメロディーで

ぐいぐいと快感のツボを押し、ここぞという時には、

全楽器で同じメロディを奏すユニゾンで大胆に盛り上げる。

聴く側は、そのベタさ加減やあざとさに辟易しながらも、

聴いているうちにぐいぐい引き込まれ、

ついつい気持ちよくなってしまうのだ。

まるでお涙頂戴の芝居を観て、

不覚にも涙を流してしまうかのように。

そのあざとさの代表例が、

弦楽セレナードの第一楽章の冒頭部分。

 

あとは、バレエの名曲もチャイコフスキーである。

白鳥の湖

眠れる森の美女

くるみ割人形

 

 

最初の問いに戻るとすると、

チャイコフスキーのあざとさに騙されたということですかねwww

畳みかけるような盛り上げ方!というのが個人的に一番好きな要素なのかもしれない。

 

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