令和7年4月22日
サントリーホールに行ってきました。
この日は、都響の定期演奏会。
めっちゃ楽しみな演目。
そう、大好きなチャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調

指揮は大野和士さん
ヴァイオリンはアリョーナ・バーエワさん
コンサートマスターは山本友重さん
そして、演目
ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番イ短調
チャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調
ショスタコーヴィチの没後50年記念なんよね。
chatGPTにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番イ短調について解説をお願いしてみました。
ショスタコーヴィチ《ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調》――沈黙の時代に生まれた音楽
1.スターリン時代とショスタコーヴィチの沈黙
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906–1975)は、ソビエト連邦という厳しい検閲社会の中で生きた作曲家です。 1930年代後半、スターリン体制下では「社会主義リアリズム」が芸術家たちに厳しく要求されました。芸術作品は民衆にわかりやすく、前向きなものでなければならない。抽象的、あるいは暗い表現は「形式主義」とされ、容赦なく批判されました。
1936年、ショスタコーヴィチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は、政府紙『プラウダ』に「音楽の代わりに雑音」と酷評され、彼のキャリアは危機に瀕します。命すら危うい状況のなか、ショスタコーヴィチは表向きには体制に忠実なふりをしながら、内心の葛藤を音楽に込めるという二重生活を強いられるようになりました。
2.協奏曲第1番の作曲――隠された本音
1947年、ショスタコーヴィチはヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフのためにヴァイオリン協奏曲第1番の作曲を開始します。 オイストラフは旧知の友人であり、ショスタコーヴィチの音楽の理解者でもありました。
しかし、同じ年、ソ連では「ジダーノフ批判(ジダーノフシナ)」が始まります。 ショスタコーヴィチを含む多くの作曲家たちは、「反人民的」「形式主義的」とされて公然と批判され、大学の教職を追われるなど、社会的制裁を受けました。
このような状況で、彼が本心をさらけ出すような作品を公にすることは極めて危険でした。 そのため、《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、完成されながらも発表が見送られ、ショスタコーヴィチの「机の引き出し」の中に眠ることになります。
3.作品の構成と象徴
《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、通常の協奏曲に比べて異例の4楽章構成をとっています。
- ノクターン(夜想曲):憂鬱で沈んだ雰囲気が漂う
- スケルツォ:皮肉と狂気が交錯する
- パッサカリア:重厚な主題に基づく荘厳な変奏曲
- ブルレスカ:皮肉に満ちた狂騒的なフィナーレ
特に第1楽章「ノクターン」では、ヴァイオリンが低い音域で静かに歌い続け、内に秘めた痛みや恐怖を感じさせます。 第2楽章「スケルツォ」では、不気味なリズムと風刺的なメロディが支配し、スターリン体制への皮肉を暗示するとも解釈されています。
第3楽章「パッサカリア」は荘厳で重々しく、ヴァイオリン独奏による長大なカデンツァ(即興風のソロ)が続きます。 ここでのカデンツァは、次の「ブルレスカ」へと自然につながる仕掛けになっており、まるで孤独な魂が狂気の中に突き進んでいくかのようです。
このように《第1番》は、単なる協奏曲を超えた、ショスタコーヴィチ自身の内面告白とも言える作品になっています。
4.初演――スターリンの死後に
1953年、スターリンが死去します。 体制はやや緩み、芸術家たちは少しずつ自由を取り戻し始めました。
その年、ショスタコーヴィチはこの作品を「改訂」し、作品番号もOp.77からOp.99へと変更した上で、ようやく発表に踏み切ります。
初演は、1955年10月29日、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって行われました。 独奏はもちろん、ダヴィッド・オイストラフ。指揮はエフゲニー・ムラヴィンスキー。
オイストラフはこの作品を「大交響曲に匹敵するスケールと内的世界を持った協奏曲」と評し、初演の成功に大きく貢献しました。
5.後世への影響
《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、今や20世紀ヴァイオリン協奏曲の傑作の一つと評価されています。
演奏者にとっては技術的な難しさだけでなく、内面的な葛藤や悲哀、皮肉をどれだけ表現できるかが問われるため、非常に高い表現力が求められます。
また、聴き手にとっても、単なる「美しい音楽」ではなく、抑圧、恐怖、孤独、そしてかすかな希望といった、複雑な感情を呼び覚ます特別な作品となっています。
この曲が生まれた背景を知ると、ショスタコーヴィチがどれほど「生き延びるために沈黙しながら、心の叫びを音楽に込めていたか」が、より深く感じられるでしょう。
勉強になりました(笑)
そして、僕の中ではメインであったチャイ5
一言で言うと、
勢いあるなぁ、都響の演奏は
というものでした。
第3楽章あたりから、なんとなくテンポが上がっていき、
演者の方々がどんどん一体感を増して行って、1つになり、
どんどん前に前に勢いよく出てくるという感じですかね。
僕個人的には、
第2楽章の甘美な感じ
が大好きでして。
そこは、もうカラヤンの指揮が最高すぎて、
毎回毎回、
うっとりしながら聴いています。
こちらもchatGPTに紹介をお願いしてみました。
チャイコフスキー《交響曲第5番ホ短調》――運命に立ち向かう音楽
1.チャイコフスキーの苦悩と新たな挑戦
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840–1893)は、19世紀ロシアを代表する作曲家の一人です。 しかし、その生涯は必ずしも順風満帆ではありませんでした。 1884年に皇帝アレクサンドル3世から厚遇を受けたものの、チャイコフスキー自身は常に自己不信に悩み、精神的な不安を抱え続けていました。
《交響曲第4番》を完成させた後、チャイコフスキーはしばらく交響曲という形式から遠ざかっていました。 しかし1888年、彼は再び交響曲に取り組む決意をします。 それが《交響曲第5番》です。
この作品には、「運命」というテーマが深く根付いています。 チャイコフスキーはスケッチ段階で「運命に導かれる受動的な存在」というメモを残しており、まるで自らの人生を投影するかのように、音楽に運命への葛藤を込めていきました。
2.作品の構成と象徴
《交響曲第5番》は4楽章から構成されています。
- 第1楽章:アンダンテ – アレグロ・コン・アニマ
- 第2楽章:アンダンテ・カンタービレ、コン・アルクーナ・リチェンツァ
- 第3楽章:ワルツ(アレグロ・モデラート)
- 第4楽章:フィナーレ(アンダンテ・マエストーソ – アレグロ・ヴィヴァーチェ)
冒頭、第1楽章の暗い行進曲風の主題は、後に「運命の主題」と呼ばれ、全楽章を貫く重要なモチーフとなります。
第2楽章では、美しいホルン・ソロが印象的な愛の歌のような旋律が展開されますが、ここにも運命の主題が顔を出し、穏やかな情景を脅かします。
第3楽章では軽やかなワルツが演奏されますが、ここでもどこか影が差しており、単なるダンス音楽にはとどまりません。
第4楽章では、ついに運命の主題が明るいホ長調に変容し、勝利を告げるかのようなフィナーレへ突き進みます。 まるでチャイコフスキー自身が、人生の苦悩を乗り越えようとする意志を音楽に刻み込んだかのようです。
3.初演――評価は二分された
1888年11月、サンクトペテルブルクで《交響曲第5番》は初演されました。 チャイコフスキー自身が指揮を務めましたが、その評価は必ずしも好意的なものではありませんでした。
批評家たちは「空虚な効果に走った作品」と酷評し、チャイコフスキー自身も初演後の日記に「失敗だったかもしれない」と落胆した様子を書き残しています。
しかし、何度かの再演を経るうちに、聴衆の反応は次第に好意的なものに変わっていきました。 特に、ドイツやアメリカでの演奏では高い評価を受け、チャイコフスキーの名声を国際的なものに押し上げる助けとなりました。
4.後世への影響――運命に打ち勝つ音楽
今日、《交響曲第5番》はチャイコフスキーの交響曲作品の中でもとりわけ人気が高く、演奏機会も非常に多い作品となっています。
特に、暗い序奏から明るい勝利のフィナーレに至る劇的な構成は、聴衆に強烈なカタルシスを与えます。 また、運命という普遍的なテーマを扱ったことから、時代や国境を越えて共感を呼び続けています。
チャイコフスキー自身は生涯、精神的な葛藤を抱え続けましたが、この第5交響曲において、彼は一瞬でも「運命を乗り越えた自分」を夢見たのかもしれません。 その夢は、今日も世界中の聴衆の心を震わせています。
この最後のカーテンコールの写真を見てくれれば、この日の演奏がどうだったかがわかりますよね。
都響もカーテンコールの写真は撮って良いことにいつの間にかになっていました。


